窓の外には、ダークグリーンの車が止まっている。ドアを開けて出てきたのは、ダークグラスにダークスーツという出で立ちの長身の男だった。
慣れた仕草で煙草を取り出し、ライターで火をつけてフィルターを口に近づける。一服しながらアパートの一室に目をやり、ダークグラスの奥の瞳を細め口の端をわずかに持ち上げた。

男は誰にも聞き取れないくらいの声で呟く。

「もうすぐあなたを俺のものにできる…。愛してあげる、俺の全てであなたを。狂おしいほどにあなたが欲しい───。」


男の声は届くことなく、アパート周辺の並木道の木々のざわめきに掻き消された。



















狂詩曲  第1番



















縋りつくような目。今にも涙が零れ落ちそうなほど潤んでいる。
  そんな目を見てほっとける人間はいないだろう。高耶もその一人だった。

(またか…。)

ここは小さな公園だ。近くにあるのが高耶の住むアパートで、当然帰り道にこの公園の前を通る。猫やら犬やらを捨てていく、心無い人間がたくさんいるらしく…高耶はそんな人間のことを恥ずかしく思うと同時に、憎いと思った。

罪もない動物をゴミのように捨てていく。そんなゴミのような人間。そんな人間を許したくはない。
「おい、わんころ。お前どっから来たんだ?」

小さすぎる子犬というほどでもなく、大人でもないその子犬は、高耶の言葉に応えるかのように尻尾を激しく振っている。どこかのCMで聞いたような、何かを訴えるような鳴き声も聞こえてくる。

高耶は困っていた。先日も野良犬、野良猫に餌をやっているのがバレて管理人に注意されたばかりだったのだ。次に見つかったら追い出されてしまう。身寄りのない仰木兄妹は、このボロアパートを追い出されたら住むところがなくなってしまう。けれど、このままこの犬を放っておけるはずがない。

「どうすればいいんだよっ。」

クゥ〜ンと鳴くだけで犬は何も答えてくれない。高耶は泣きたくなった。仕方がないのでこっそりと餌をやることにした。家には味噌汁の出汁に使った煮干がある。急いで家に向かった。
喉に骨が引っかからないように細かくちぎり小皿にのせてラップをかける。冷蔵庫で冷えた牛乳を蓋付のタッパーに入れて準備完了だ。見つからないように公園へ急ぐ。

途中管理人に会ったが、気づかれずに済んだらしい。公園に着くと子犬が高耶を待っていたようだ。
「わんころ、うまいか?腹減ってるときのメシは格別だよな♪」

ついつい動物に話しかけてしまう高耶であった。ときどき友人の譲に見つかり恥ずかしい思いもしたが、この癖は直りそうもないらしい。


子犬と出会ってから半年。子犬はもう立派な成犬になった。人間嫌いの高耶は動物といるほうが好きで、遊んでやったりしつけたりしていた。

「お手。おかわり。待て。伏せ。」

犬は高耶の言葉に忠実に、技をこなしていった。ご褒美になでてやると全体重をかけてのしかかってくる。顔中をなめられる。
気づけば目の前に青い空が広がっていた。知らぬ間に地面に押し倒されていたらしい。公園の芝生は朝露に濡れ、ひんやりとした感触が心地いい。

「───んーーー。」

大の字になって力いっぱい伸びをした。木々からは蝉の声が。暑い夏は鬱陶しがられるこの音は、高耶が好きな音だった。植物が太陽を浴び成長するこの季節。昆虫もひと夏の短い生を一生懸命生きる。

夏───。
7月生まれの高耶は、そんな夏が大好きだった。
山に、海に、林に、花畑に、川に───父と母と妹と。一緒に出かけた思い出が多すぎるこの季節。大好きだけどつらい季節。両親はもうこの世にはいない。高耶と美弥を残して逝ってしまった。だからこそ高耶は美弥にもっといい思い出をたくさん作ってやろうと思う。寂しくないように、悲しまないように。いつも幸せに思えるように。



夢を見た。懐かしい夢。遠い遠い記憶。差し伸べられる手は温かくて優しい。
手のひらを包み込まれる。大きくて節くれだった手。

(このてはだれ?おとうさん?)

幼い高耶は離すまいと力を込める。その手の主は口元に笑みを浮かべている。
(あったかい。きもちいい。)

このまま覚めなければいいのに。そう思うほどに。
高耶はずっとまどろみの中にいた。



顔に感じるぬめった感触。夢の世界の高耶を起こしたのは例の犬だった。


「おはよう、わんころ。」


上半身を起こし犬を撫でようとした高耶は、違和感に顔をしかめる。腕が上がらない。手が動かせない。
よく見ると、見知らぬ男が高耶の手を握っていた。夏だというのにいくらだからって、暑苦しいダークなスーツを着込んでいる、190近い大男。

「なんだ、こいつ。人の手なんか握って眠ってるし。」


(俺も男で、コイツも男、だよな…。もしやこいつ───)
身に危険を感じ手を離そうともがいていた高耶は、急に引力を感じ男の体の上に乗っけられてしまった。スーツ越しに感じる厚い胸板やがっちりととした肩幅。鍛えられた腹筋。そして整った顔立ち。
高耶の理想とする自分像が目の前にあるような、そんな感じだった。


「あの、仰木高耶さん───ですよね。」

「え、あ、そうだけど。」

「実は今日、あなたにお礼をしにきたんです。」

「お礼って、オレ、あんたになんかした覚えはないし、会ったこともないんだけど。っつーか、」

この体勢、何?と聞きたかったが、なぜか聞くこともできず、高耶は直江の話を待った。

「実は、この犬のことで。」

「この犬、実はうちで飼っていた犬でして、たまたま友人の家に連れてきていたら逃げてしまってそれっきりだったんですけど、探しても見つからないんで、きっと誰かに拾われたんだろうと。」
「で、なんでオレが面倒見てるって知ってるんだ?」
「友人というのが長秀──いえ、千秋修平なのですが。この間遊びに来たときに、前に逃げてった犬みたいなやつを見たって言ってたんです。それであなたの事を聞いて。」

「誰にも言ってなかったんだけどな。(なんでバレたんだろう。)」


「いつも付き合いの悪いあなたが普段何をしているのか、お友達と賭けてたみたいで。ちなみに長秀は女性、譲さんはいかがわしいバイトって思ってたようです。」

(友達ってのは譲かよ。いかがわしいってなんだよ!)

「後を追ってきたら高耶さんと犬がいたらしいですよ。」

(ってことは、オレが動物に話しかけてる人間だってばれてるってことか。また千秋のやつにからまれちまう。)

「ところで、長秀ってのは千秋のことなんだろ?なんで───」

「ホストやってるんですよ。長秀って言うのは源氏名です。」
「へぇ。あいつがホストねぇ。あいつが高級なマンションに住んでるのはそういうわけだったのか。」
「指名No.1のホストで『プリンス』って呼ばれてるんですよ。」
「あいつがプリンス〜?冗談だろ。」
「いいえ、本当です。オーナーの私が言うんだから嘘じゃないですよ。」

「ふ〜ん、ま、いいや。で、そろそろ放してもらいたいんだけど…。」

「お嫌でしたか。」

「嫌も何も、オレはそんな趣味はねぇよ。」

「そんな趣味とはどんな趣味ですか?」

「うるせー。さっさと放せ、暑苦しい。」

「暑苦しいだけですか。それはよかった…。

直江の口元が不自然に笑っていたのを高耶は見逃していた。それが幸か不幸かはわからないが、高耶が直江の術中に嵌っているのは間違いない。


漸く開放され、優しい仕草で犬を撫でる高耶に直江は告げた。

「その犬、連れて帰ってもいいですか?」

今まで考えたこともない話だった。高耶は捨てられたと思ってこの犬を面倒見ていたのだ。本来の飼い主が現れた今、連れて帰ってもらうのが当然だろう。しかし、手放すことを考えたくないほどまでにこの犬に情が移ってしまっていたのだった。

「今度見つかったら、このアパート追い出されるんでしょう?だったら…」

「……。」

高耶は、戸惑いの表情で犬を見た。やっぱり離れたくないと思った。しかし、どう言い訳しても、飼い主の直江にはわかってもらえないだろう。どう言っていいかわからず黙ったままだった。

「どうしても離れたくないのなら、私のマンションに来ませんか。ちょうど部屋も余っているし。1フロア借りてるので、美弥さんにもほかの部屋に住んでもらってかまいませんよ。もちろん、ペット可です。」

「……。」

「家賃のことなら気にしないでください。私名義で買ったマンションですから家賃なんて必要ないんですよ。」


直江の真意がわからない。ただ犬の面倒を見ていただけの人間を家に住まわせるという。しかも家賃はいらないとまで言っている。
はっきりいって、まだ高校生の高耶に安定した収入があるわけがなく、バイト代で生計を立てている。家賃と食費はもちろん光熱費や授業料まで払っているので、当然金がたまることもなく貯金は減る一方だ。美弥に渡す小遣いの捻出にも困っている。正直、生活は苦しい。家賃やら光熱費やらがなくなればと思ったこともある。
だから直江の申し出はとても魅力的だった。
しかし借りは返したいのでどうやって返すかが問題だ。


「本当にマンションに住ませてもらえんのか?」

「もちろんですよ。」

「じゃあ、ただでとは言わない。それじゃあ、なんかすっきりしないからな。何か俺にできることってないか?」

直江はしばし考え込んでいるようだった。

「私の店で裏方の仕事をしている人がやめてしまって困っていたところなんですよ。ですから、高耶さんあなたにお願いしてもいいですか。そのバイト、時給もいいんで高耶さんにも悪い話ではないはずです。」

「家賃も払わないで、バイトでも金もらってたら借り返すことになんねぇじゃん。」

「いいんですよ。ちょうど人手が足りなかったんだし、高耶さんもお金あったほうがいいでしょう?その分労働で返してくれれば助かります。」

「そうか。じゃあ、働かしてもらうよ。けど食費くらいは入れさせてくれ。」

「わかりました。では、早速明日にでもうちに来ますか?」

「んな急に荷物とかまとめらんねぇよ。」

「業者に頼めば引越しなんてすぐですよ。今日中に手配しておきますので。また明日あなたと美弥さんを迎えに来ます。それでは。」


リードを引っ張り直江は犬を自分の車に乗せると、そのまま軽快に走り去っていった。
暫し呆然と見送っていた高耶だが、我に帰るとすぐに美弥に知らせに家へ戻った。

事情を美弥に話すと、とても喜んでいた。こんなボロアパートで暮らすのと、高級マンションで暮らすのとは天と地ほどの違いがある。喜ぶ美弥の姿を見て高耶も嬉しくなるのである。
二人は明日からの新しい生活を夢に見つつ、荷物をまとめる作業に取り掛かった。


高耶はこのとき、気づく余地もなかった。穏やかな紳士の仮面を被った男の正体に。後悔することになるなんて夢にも思わなかっただろう。
その夜、仰木家の明かりは明け方近くまで消えることはなかった。





あとがき

最初考えていた話とは全くかけ離れてしまいました。
いつの間にかホストものになりそうな予感。このままシリーズ化しようと思ってます。
元ネタはわかる人にはわかっちゃうと思います。パー〇とラ〇モ。
千秋をキングにしようと思っていたのですが、キングは直江で。直江はオーナー兼No.1ホストです。
無理やりな展開が十八番な管理人なので、今回もこじつけてます。

2004.8.8 〜 8.29  鷹夜那岐



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